怒りは自分を守るための感情
イライラする…腹が立つ…かっとなる…
怒りとは、こころが傷ついたときに起きる、傷つけるものを跳ね返すためのエネルギーです。自分を守るための防衛反応と考えています。
動物たちは、敵の脅威に対して、怒りのエネルギーを使って威嚇します。縄張りに入られた、これは安全な生存権が脅かされる体験ですし、子供が襲われそうになっている状況も、生物における最大の脅威かもしれません。
戦って自分や自分の大切なものを守るための、強いエネルギーを、怒りは生み出してくれています。
私たちも、人からひどいこと言われた、された時、怒りによって相手を跳ね返し、自分を守る行動をとります。傷ついていて、もうこれ以上されたら困るという時、相手を跳ね返す力に、怒りはなってくれています。
約束破られた時、自分の事わかってもらえないとき、自分を大事だとしてくれていないとき…
また、自分のことではなくても、ルールを守らない、道徳に反した行動をしている、そういった人たちを見ても、怒りが出る時があります。
並んでいた列に、横入りされる、電車の中で携帯電話で大声で話をしている、高齢者に席を譲らないで寝ている。自分が見ているスポーツゲームでのアンフェアなレフリーの判断…。
自分が直接脅威を受けていなくても、自分が大切だと思っている信念が傷つけられる体験に対して、その傷つきから自分を守るために、怒りは生まれてきます。
政治家の不祥事、社会的に上に立つべき人たちの不正、有名人の不倫…。
これらも、自分がこうあってほしいと思う社会的な理想が深く傷つけられることで、それ以上傷つけないでと、その原因を作った人たちを跳ね返すときに、怒りが生まれています。
このように、怒りは、自分を守る防衛反応であり、自分を大切に思うが故の反応ですので、怒り自身に問題があるわけではありません。怒りを持つことは、自分を守るための正当な権利でもあるからです。
感情には、様々なものがあります。不快な感情の代表的なものは、怒り、恐怖、不安、悲しみがありますが、こういった不快な感情はほとんどの人が、それを避けようとします。
恐怖をずっと感じていたい、また不安をずっと感じていたい、悲しみをずっと感じていたいという事はせずに、その感情から何とか脱しようとしていきます。
しかし怒りの場合は、あえてその感情に入っていこう、そこから出ずにとどまろうとする場合がしばしば起こります。
これも、怒りという感情が、不快なものだというだけではなく、自分を守るためのエネルギーだという事にあると思います。
自分を脅威から守るため、その感情にあえて入っていき、その中にとどまろうとするわけです。
ただここで一つの問題があります。怒りは自分を守ることはできても、その原因となったこころの傷を癒すことはできないということです。
また、怒りの感情にずっと入っていると、その他の感情を感じずに済みます。
あまりにも深い悲しみにいる時、例えば自分の子どもが飲酒運転していた人の車にはねられてなくなってしまった…。加害者が危険運転致死傷罪で20年刑務所に入るとなったとしても、怒り、恨みの気持ちが止まずに続くこともあるでしょう。
怒りの中にいる時だけが、その深い喪失の苦しみから逃れられているのだとしたら…。怒りを手放すことはとても恐ろしいことになるでしょう…。
また、怒りを抱くことが故人との関係が今も続いていることを感じられるのだという場合もあるでしょう。
なぜ、自分は助けてあげられなかったのだろうかと、自分自身への怒りを向ける人も多くいます。
そしてこの自責の念があることが、唯一故人とのつながりを感じていられることになってしまう場合、やはり怒りから離れることは故人と永遠に離れてしまう事になってしまうため、難しくなってしまいます。
しかし、本当に必要なことは、そのこころの傷を癒すことであるはずです。
そのこころの傷を癒すことができて、はじめて怒りを使わなくても、おちついてすごせるようになるわけです。怒りは自分を守るための大切な感情ですが、本当に必要なのは自分の傷を癒してあげることになります。
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